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ボイスチャット〜初恋〜

 ナナは欠伸をかみ殺した。
 時間は深夜2時を回った。レイド中、終わる見通しが立たない連戦。宮殿のような豪華絢爛なダンジョンのコントラストに目は悲鳴を上げ、脳みそは睡魔に侵される。最終ボスは名だたる神々の中の一人。公式の掲示板の噂によると、最終広間の王座に座る光と勇気の女神・マー。
 我がギルドはサーバーの内でいち早く、マーの神殿への鍵を入手し、女神マーの謁見の間へと攻略の足を進めている。
 途中何度か全滅を繰り返したが、コツを掴み一気に奥まで進んだ。が、道を誤り、トラップにかかり、入り口から再突入を余儀なくされ、深夜まで及ぶレイドとなってしまった。

Yutaka say:「nana!!聞いてる?」

 残業から帰り途中交替したリーダー・Yutakaの文字がチャットに映し出される。その間も、一人減り、二人減り、明日は平日。眠ると言って過半数のメンバーがレイドを後にして落ちていった。
 上半身が無意識にユラユラ揺れ、眠気を誘った。今にもオン・ライン・スリープの誘いに片足を突っ込む準備。しかし、今晩だけは眠らないとナナは決めていた。
 彼女は女神・マーを信仰している騎士。ゲームを始めるにあたって、キャラクター製作時にマニュアル本片手に信仰を選んだ時から、一度でいいからマーを拝んでみたい。ナナをここまで引っ張ってきた原動力だった。
 他の神は神殿に銅像が飾られていたが、虚像崇拝と対立姿勢を表していたマーは偶像を作ることを禁じ、姿形は一切秘密とされ、姿の変わりにシンボルが神殿を彩る。過去一度もマー自身の姿がゲーム中で描かれた事は無い。
 公式フォーラムにも、マーを攻略後画像を貼り付けないようGMから厳重に注意が促されていた。

「nana 眠そう〜」
「ケッコウきついんじゃない?nanaの仕事、朝が早いよね」
「nanaさん、もう寝たほうがいいよ」

次々と羅列されるチャットのスクロール文字を眺め、再び欠伸をかみ殺す。何か返事をしよう。こうしている間も、僅かながらに残った元気なメンバーは次々と雑魚を倒している。いつまでもダラダラ怠けていては、迷惑がかかる。

「お・き・て・まーす」っと、ナナは言葉に出しながらキーを片手で打ち、マウスを持ち直す。戦闘に混ざり前線に赴くと、自然と目も頭も冴えた。
 気が付けば、起きている前衛はパラディンのナナとファイターの安住のみ。

「人数ヤバくね?」
「リーダー、どうするよ」
「うーん・・・」
「ボイチャ使う?」

 メンバーの一人が提案。最後まで頑張っていた夫婦が脱落し、人数は全員で5人。これでは女神・マーを倒す事は不可能。
 神様の癖して最強と謳われるパラディン。ギルドメンバー全員が揃ったとしても、果たして倒せるかどうか疑わしい。けれど、姿を見るだけなら・・・ナナの心は浮き足立った。
 リーダーのYutakaが「じゃ、今日は解散にしよう」と決断してしまえば、仲間は散り散りに眠りにつくのだろう。姿を一目拝みたい! ナナは机の上で、淡い緑色のチャット文字を強く強く念じ、凝視し、掌は握り締められていた。

Yutaka say: 「えー、寝そうなメンバー寝かせないためにボイスチャットを使います。もうこれ以上人数減ると、この先進む事もヤバそうなので」
「ok!」
Yutaka say: 「でもどうしても眠たい人は、オンラインスリープしちゃう前にゲーム落として寝てくださいー。ここでキャラ止まられると、他の人が困るんで。頼みます。それから、ボイスチャット嫌な人はマイクオフで声だけ聞いてくれて構いません。各自ボイチャにしてもチャット画面の指示は見逃さないように。以上。私も憧れの神様、張り切ってマーに会いに行きましょう!」

 Yutakaの一言で気合が入った。既に準備していた数人の「おう!」という野太い掛け声がスピーカーから流れる。
 ナナはもぞもぞと机の引出しに仕舞い込んだヘッドセットを取り出し、USBへ繋ぐ。所持品の中では、珍しく奮発購入したヘッドセット。初代があっさり壊れてしまい、わざわざ秋葉原まで買いに出向いた代物だ。プロゲーマーご用達のアメリカ製。
 ナナにこのメーカーを薦めた人物は、今は居ない。長い事ログインしてない。師匠と言っても過言ではない彼の存在は、ゲーム世界の中で大きな位置を占める。
 ナナは僅かに寂しい気持ちが湧き上がり、慌てたように椅子に腰掛けた。
 マイクは単一指向性だが、感度が抜群すぎて部屋の色々な雑音を拾うのが玉に瑕。

「テス」
「まいくてすー、マイクテスー」
「よく聞こえるよ、安住さんYutaさん」

 三人の男性の声がヘッドホンから直接耳に流れ込んだ。その様はまるで、耳を蹂躙されているようで、ナナは肩を竦めた。感度の良すぎるヘッドホン。困った事にナナは耳が弱い。身体的に弱いのではなく、責められるとスイッチが入ってしまうポイントが耳。代わる代わるの男性の声が左右のパンを効かせて、次々とナナの耳を余すところ無く駆け巡る。
「ふぁ・・・」
 ナナは思わずゾクゾクと体を震わせた。

「あれ、今のナナさんの声?」
「欠伸してんじゃねー?」
「やっぱり眠いかな・・・?」

 ナナは慌ててマイクを意識し、気持ちを引き締める。僅かに漏れた喘ぎすら、拾い集めて一緒に遊ぶ仲間に垂れ流す。うかつな行動は取れない。
「だ、大丈夫です。ちょっと欠伸が出ちゃったけど、平気平気」
 ナナは誰も居ない部屋で一人、画面に向かってから元気を振って見せ、キーボードのミュートの位置をチラリと確認した。何度体験しても、ボイスチャットには馴染めない。部屋に一人椅子に腰掛けパソコンのモニタに向かって話す。一人だが一人でなく、複数の人に動く音一つ一つが送信される。
 息使いも、唇を湿らせる音も、奥歯を噛む音も。
 ナナの体の感性が、ゆっくりとヘッドホンから流れ出る音でこじ開けられて行く。

 

 始めは順調だった。だが、度重なる連戦でMPは尽き、プリーストが死に、復活させた・・・ところまでは良かったが、その後MPの回復が望めないままに再び連戦に持ち込まれた。どう見ても前に進むのが困難な状態。もたもた進んでいては、今敵を倒したばかりのこのフロアにも再び敵が湧き出す。
 1グループに毛が生えた程度の仲間では、無理な話だ。ここまで来れたのも、残ったメンバーがギルド屈指の腕と装備を備えていた故。

 

「どうする?」
「ここで帰るのは、悔しいなぁ」
「ね、Yutaさんカーシュさん呼べない?この時間なら、勤務時間不規則ならログインできるんじゃないかな」
「そだなぁ・・・メールが入るのも、この時間が多いしな。ちょっと携帯鳴らしてみるわ」

 メンバーの一人がナナの憧れる人物の名前を告げる。耳の中に木魂する声に薄く開きかけていた淡いピンク色の唇が、キュッと引き締まった。
 カーシュが・・・来るかも?眠気は完全に吹き飛んだ。ワクワクする気持ちがナナの胸を締め付ける。ソワソワと、綺麗に切りそろえられたネイルも塗らない素っ気無い指先で、若草色のパジャマに留められた青い透明なボタンを弄る。
 昔カーシュと遊んだ時、服装について話し合った記憶を引っ張り出す。
 彼は、Tシャツに短パンだと言い、ナナがいつでも風呂上りのパジャマ姿だというと、「この年で毎晩必ずパジャマは気持ち悪い奴だ」と笑った。
 後日、カーシュがナナをネカマだと勘違いしていた事実を知らされ、誤解を訂正しようとムキになると「性別なんてどっちでもいいじゃん?」と軽く交わされた。ナナのネットの初恋は、そこで散ってしまった。

 

Yutaka say :「カーシュ来られるって。ていうか、無理やり頼んだわけだけどw カーシュ・パラディンとプリーストで2キャラ出動予定」

 突然チャットから文字が流れる。ナナは心臓をぎゅっと鷲掴みされたような気分になった。あの時終わってしまったと思った初恋の、甘酸っぱい気持ちが咽元まで込み上げ、胸がきゅうきゅうと締め付けられ、鼓動はドクドク爆発した。
「うぁ〜・・・カーシュに会うの久々、なんか緊張」
 思わず呟いた癖の独り言も、高感度マイクがみんなの元へと届ける。

 

「おっ、ナナさんが緊張してるよ」
「ナナぁ、色気出してるんじゃねーぞ。おまえ、カーシュの中ではネカマなんだから」

 どっと笑い声が沸く。5人とは言え、同時に喋れば相当賑やかだ。
 ナナは益々ソワソワと髪の毛を結い直した。頭の小さいナナはUSA製ヘッドセットではサイズが大きい。ポニーテールにして高い位置で結び、そこを支えにして頭のワイヤーを引っ掛ける。パラパラと後れ毛が白いうなじに垂れた。その首にまとわりつく後れ毛を手でかきあげてピンで止める。
 緊張で呼吸が荒くなる。なんとか、もう一度ゲームに復帰して欲しい。そしてリアルでカーシュと接点を結び・・・・・・さらにその先を脳裏に描こうとし、ナナはうなだれた。女子中高大の一貫教育を受け男っ気の無い職場の事務員に就職したナナからは、男性を誘うなんて遠い世界の話。今繋がっているオンライン・ゲームの世界より、遥かに遠い。
 カチッとレイドチャットのミュートキーを白い指で叩き、「はぁぁぁ」とため息をつく。
 無理だ、何度も頭でなぞらえ「ムリだ」と結論は導き出されている。生まれてこのかた、ロクに男性と会話も出来ない奥手な自分。携帯番号を聞き出し、二人でオフ会をと持ちかける、なんて異次元の出来事だろうか。
 ギルドのオフ会は何度か誘われたのだが、男性ばかりなので敬遠した。お陰で、実はネカマ説が未だに払拭できない。勿論、自分から「女です」と看板しょって歩いているわけではなく、仲間の一人が彼女の誕生日プレゼントを何にしようか悩んでいる時、評判のいい口紅の銘柄をそっと教えたりしている、そんな謙虚さがナナらしい。

  

「ナナ!ぼやぼやしすぎ。前衛が最初に前に出なくてどうする!」

 安住の叱咤が飛んび、ナナの体はビクリと恐怖に固まる。ギルド一努力家な廃人さん。ギルド一恐持てで厳しい。ナナは常に彼には怒られていた。声を聞くだけで条件反射に身を竦めるほど。
 かばってくれ同じ立場でフォローしてくれるカーシュが居なければ、尚の事安住はナナに命令口調で指示を出すのだ。
 ナナは要領が悪く、方向音痴で反応も遅い。一人で迷っているところに、安住が「お前が居るべき場所に居なくてどうする!!全速力で走って合流しろ」と怒鳴られた事もあった。走って合流を試みたナナは、案の定さらに奥地で迷ってしまい、敵は強く途方に暮れているところをカーシュは何度も一人だけ抜け出し迎えに来てくれた。
 思い出せば出すほど、カーシュの優しい行動の一つ一つが胸に染みる。強く思えば思うほど、ますます「携帯番号教えて?」などとは言えないのがナナの性格だった。
  

(Yutaka)「カーシュが2キャラだから、一グループには収まりきらないし先にグループ組みなおして、分けちゃうね。Bグループ、安住リーダーでナナと組んで。カーシュ来たらBグループに。Aグループは、俺と残り三バカトリオ。」
「え゛っ」
「Yutaさん、安住さんとナナさんって回復居ないじゃん」
(Yutaka)「ナナはパラディンだし、セルフヒールで。カーシュがすぐ来るから問題ないよ」
「えぇぇー俺、ナナさんと一緒がいいなぁ」
(Yutaka)「はいはい、言ってろ。グループ入れてやらねぇぞ。それから、ちゃんとグループ違っても安住にヒール入れろよ。安住に怒鳴られたくなけりゃなw」

 安住からグループへの誘いの画面が表示された。
 うわっ・・・カーシュが来るまで二人っきりだ。ナナは恐る恐るマウスをAcceptの枠内に合わせカチッと左クリックする。よろしく、とだけチャットに文字が現れる。安住はギルド一無口な人でも有名だった。
「こちらこそ」と、ナナは片手で打ち込んだ。空気が重い。Aグループは随分盛り上がっているようで、ボイスチャットもレイドボイスからグループ内ボイスに切り替えて談話していて、こちらには一切会話が聞こえてこない。
 ナナはカーシュに会える、そんなときめく気持ちから手持ち無沙汰にグループボイスに切り替え、キーボードをカチャカチャ叩いた。
「あ・・・あれ???ミュートしてあったっけか」
 適当にキーを叩いているうちに、うっかりミュートキーに触ってしまった気がした。だが、グループを組んでいるはずの安住からは何の発言も無い。

安住 say:「悪いけど、しっかり仕事してくれないか?カーシュさん来るまでは、うちらのグループ回復居ない訳だし」

 ナナは慌てて背筋を正した。怠けているわけではない。が、安住に比べれば格段に反応速度が遅いのは否めない。結局、ミュートの件を聞き出せず「はい!」と打ち込んで戦闘に集中した。
「あ〜、早くカーシュ来ないかなぁ・・・あー!!ドキドキしてきたぁぁぁぁ」
 ナナはじたばたと足で地面を叩く。その雑音交じりの音、全てがしっかりと安住に届いているとも知らず。
「心臓破裂しちゃいそ」
 ナナの吐息交じりの声が耳元で安住へと囁きかけた。はぁはぁという息使いだけでなく、心臓の鼓動までもが聞こえてきそうな高感度マイクの恐るべし距離感。グループを組んだ安住は、押し黙り、作業をこなすように黙々と敵をタウントし殴った。
 ナナも安住に活を入れられ人並みの動きに戻っている。元々独り言が多いタイプなのか、殴りながら何度も「えい!」とマイクが彼女の掛け声を拾った。
 その音が突然静かになり、カチャカチャとキーボードを叩きつづける音に変わった。誰かから個人的にチャットが送られてきたのだろう。キーボードを叩く音に混じって、か細い声で悩むような小言が唇から綴られていた、と思った途端
「うわっ」
 安住の耳は突然のナナの悲鳴のような大音量にキーンとハウリングし、大量のノイズを叩き込まれ顔を歪めた。続けて「ひぇぇ、どうしよ!?」とナナの焦る声に合わせて、断続的にキーを叩く音が緩やかに繰り返す。
「携帯、携帯・・・ああっ、まだカバンの中入れたままだ」
 椅子から立ち上がる音。鞄を開く音。ワンプッシュ携帯を開いて携帯のストラップが揺れる音。再び腰掛ける音と同時に、携帯の着信音。
 安住のチャットに文字が書き出され、点滅した。
「ちょっと電話出ます、AFK」
 ヘッドセットを耳から外すガサゴソという音、「けほけほ」と咳、携帯の受話器ボタンをプッシュする音。
「も、もしもし。ナナです。・・・カーシュ?」
 ナナの声は、ずらし首にかけたヘッドセットのマイクから、グループ内ボイスチャットで安住の元へと流れ込む。
「あ、ナナー?はじめましてだな。カーシュです。本名はカズシって言いマス」
 携帯で受信した声までもマイクは拾った。
「Yutakaから携帯番号聞いて、勝手にかけて悪かったな」
「と、とんでもないです。Yutaさんから携帯番号をカーシュに教えてもいい?ってちゃんと確認来て、私もいいよって返事して・・・・・そしたらカーシュから電話が来て」
 ナナは饒舌で早口だった。彼女の声を聞き、カーシュが笑いを含む。
「一度ね、ナナとはきちんと話をしなきゃって思ってたんだ」

(Yutaka)「えーえー、聞こえてるグループB?」

 安住はミュートしていたマイクをONにし「聞こえる。ナナはAFK」と返事を返し、再びミュートする。

(Yutaka)「みんな聞いてね。まず、カーシュが課金が切れててログイン出来ないらしい。クレジットを入力するとエラーが出て入れないんだそうだ。だから、今日はこれで解散にします。」
「えーー、ここまで来たのに」
(Yutaka)「うん。でも犬死しに来たわけじゃないからね。お楽しみは次にとっておこう。今日は遅くまで・・・って言ってももう朝だね、お疲れ!解散!!」

 潔いリーダーの解散の挨拶に口々にお疲れ様、と聞こえるAグループの声。その声に混じって安住は必死でナナとカーシュの会話に耳を傾けていた。
「どんな話ですか?」
「あははは、ナナは本当にネカマかなって話しをさぁ」
「ひ、ひどーい。ネカマじゃないですよー。声聞いて分かってもらえました?」
「うんうん。可愛い声のネカマだって分かったよ」
「ネカマじゃないです!!」
 咽元に苦い物がせり上がる。安住はリコールポーションを使い豪華絢爛なダンジョンから一足先に抜け出し、ホームポイントへと戻って見慣れた街の風景と自分のキャラクターが二つの太陽に照らし出されて作る影を眺めた。キーボードを机の脇に押しやり、机に突っ伏す。ヘッドホンの奥からは楽しそうなナナとカーシュの会話が続いた。
「冗談は置いといて、ナナさ・・・俺のこと好意持ってくれてるってYutakaが言うから。ちゃんとナナには最後の挨拶しなきゃって思って」
「え・・・最後?」
「今日、俺入って、みんなに最後の挨拶する予定だったの」
「え」
「ナナが憧れのマー様に会いに行くのを手伝って、それで最後の幕を引こうかと」
「・・・・・・」
「ログインしようとしたらさ、課金切れてて。クレジット入れたんだけどエラーが出ちゃって入れなくてさ、最後にナナとマー様見たかったなぁ」
「・・・・・・・・」
「ナナ、聞いてる?」
「・・・はい」
「ごめんね」
「い、いいえ」
「も一度、ナナとはじめて会った洞窟でキャンプしたかった」
 ぐすっ、ナナが泣き出す声。
「私、帝王の部屋に行く途中に道に迷った時のこと、いつも思い出してました」
「安住が早くこい!!って怒って、ナナ道が分からなくてテンパってて、俺が迎えに行ったよね。それも何度も」
 カーシュは再びクスクスと笑い声を響かせた。キャラクター同様、気が利く、気のいい男。 「あの時から私カーシュを・・・・・」
 

(Yutaka)「じゃ、寝るね。おやすみー」

 Yutakaの声に我に返り安住はマイクをONにし「おつー」とだけ返事す。再びミュートにする。両耳から聞こえてくる、ナナの啜り泣きの声。
「ナナ・・・あー、いいや。なんでもない。今までありがとうね。」
 ナナの告白と思しき言葉をカーシュは遮った。
「カーシュ・・・・」
「ごめん、ナナ。そういうのはナシにしよ。楽しい思い出だけ大事にしよう」
「カーシュ」
 ナナのカーシュを呼ぶ声は殆ど聞き取れなかった。数分、二人の、無言の時間が過ぎる。カーシュはナナの泣き声が静かになるまで待つ。その沈黙は、決して無言の圧迫感を感じさせるものではなかった。
 彼女の鳴き声が細く消え去り、カーシュが言う。
「ナナ、ありがとね」
「こちらこそ、楽しかった思い出ありがとうございました」
 涙で途切れ途切れになりながらも、ナナは最後まで伝えた。
「じゃ。また、どこかで会えるといいね」
 安住のヘッドホンは再度泣き出したナナの嗚咽で埋め尽くされた。かすかに、携帯の切られる「ツーツーツー」という音が混ざる。大きく深呼吸し、安住は手元のキーボードを引き寄せ、マイクONにしグループボイスに切り替える。
「おいナナ、聞こえてたらリコールして戻って来い。そろそろ敵が沸く」
 嗚咽に混じってチャット画面に文字が「はい、急いでリコールします」打ち出された。ナナと安住は同じホームタウン。バインドポイントで安住はナナの鳴き声を聞きながら動かない。
 モニタ画面に見慣れた、白銀に青い鳥のモチーフが入った鎧の騎士が現れる。ナナだ。安住はマイクが音を拾わないように注意しつつ、ため息を吐き喋る。
「ナナ」
 はい、とチャットの文字で返事が来た。
「どこか経験地でも稼ぎに行くか」
 あまりにも苦し紛れなセリフだ、と安住は自分で言った言葉に苦笑を隠せない。
 しばらく間があり、返事は再びチャットの文字だった。 「すみません、今日は寝ます」
 回線の向こう側でナナはまだ嗚咽を噛み殺していた。聞いている安住もいたたまれない気分になり、二人の接点は断ち切られたがログアウトすることも、机の前を離れる事も、ヘッドセットを外す事も、声が聞こえていると告げる事も出来ず。いや、告げて聞き耳を立てていたとナナに思われることが恐い、と安住は己の心中を分析した。

「どぅせ私はネカマですよーだ」
 数十分以上経過していた。ウトウトして机に頭を乗せていた安住は、ナナの突然の声に飛び起きる。
「胸だって・・・バカみたいに大きくて重いし。頭だって、回転速くなくて、ゲームの腕もヘタレだし。安住さんにいつもヘタだって怒られてるし・・・それに・・・・」
 ますます、聞いてはマズい独り言に安住は眉を顰めた。
「それに、この年で処女だし・・・カーシュぅ」
 バンッと安住はミュートキーONを叩いた。危うくマイクONなのを忘れてぶはっ、と噴き出す所だった。
「はぁ」
 ナナの溜息が長く尾を引く。
「カーシュ・・・・好き・・・好き、大好きだったよ」
 クチュ、液体を混ぜ込む音がナナの声とは別に送り込まれる。
「ふぁ」
 ふぁ? 安住は音の正体を突き止めようと耳に意識を集中した。
「カ、カーシュなんて・・・私のオカズに し ちゃ う んっ・・・だ、からぁ!」
 息苦しい沈黙。
 ありえない展開。
 あのナナが、ヘッドセットを首にかけたまま自慰をはじめる。脳内に浮かぶしどけない姿に安住は何度も小さく息を吐き出した。粘着質な音が執拗に右から左に駆け抜け、粘着音にシンクロして甘いとろける吐息がめりはりを効かせる。
「っ・・・・失恋したのにっ・・・・感じて る」
 定期的に腰が跳ね椅子が鳴る音。
 執拗に攻め立てる指と唇から溢れる濁音。
 椅子に腰掛け前かがみになり、両手の指で陰部を攻め立てるナナの姿が安住の脳裏を束縛し離れない。
 いつまでコソコソと隠れて楽しむつもりだ? 安住は再び自問自答した。
「だめだよぅ・・・カーシュさよならって・・・はぁ・・・」
 全身を愛撫されるかのような声を聞けば、打ち明ける決意は鈍った。最後まで、最後はどんな声でいくのか。それまで聞こえている事実を告げるのは待てばいい。目をつぶると、カーシュを脳裏に描いて乱れるナナの姿。彼女の姿と自分の今置かれた現状がだぶった。ナナが頭で犯し、甘い声で届かぬ想いを募らせる相手はカーシュ。
「カーシュ、カーシュ」
 我慢の限界を超えた。カーシュと喘ぐナナに興奮し反応し、触れてもいないのに爆発寸前な股間。
 意を決してマイクONに手を伸ばす。
「俺も、・・・・・おまえをオカズにしていいか?」
 ひっ、とナナはパジャマとパンツの下に入れた手ごと固まった。
「・・・・あ、安住さん、いつから」
 ナナは頭がどんどん熱くなり、ハッとしたように固まったまま目だけ動かし自分の卑猥な格好を見下ろした。
「ずっとマイクONだった」
「・・・・・ずっと・・・」
「カーシュをオカズにしてるらしいのが、筒抜けだ」
 くっく、と安住の笑い声がナナの耳を擽る。
 ナナの頭はこれ以上ないほどに血が上った。屈辱と、少しの怒りと・・・今の言葉による刺激。
 冷静に花弁に添えた指を抜こうとし、くちゅっといやらしい音を鳴らしてしまう。スピーカーの向こう側で、安住がゴクリと咽を鳴らし、大きく息を吐き出す音がナナの耳を直撃する。ゾクゾクと安住の吐き出す息の音が背筋をなで上げる。
 ナナの体はつま先までビリビリと快感が走った。
「私の声を・・・き、聞きたいってことですか」
 過去に味わった事の無い快感の種類だった。 「ああ、そうだ」
 荒い息のまま、低く唸るように安住は告げた。響く重厚な声がナナの耳を絡め取って、嬲る。耳元の息使いが瞳を閉じると、すぐ肩越しに顔が添えられているように近い。
「ナナの声で一発抜きたい」
 あの、一緒に居る時は腹を立て、命令を下してばかりの安住が「抜きたい」と頼み込んでいる・・・・ナナは不思議な快感に目を閉じた。
「聞いても、ぃいことないですよ・・・」
 細い指は無意識のうちに愛液を溢れ出させている花弁を撫でた。ぶるっと震え上がるような快感が全身を駆け抜ける。一人でするより、ずっといい。知らず知らずのうちに、ナナの息も上がり、マイクを通しダイレクトに安住の耳にナナの快感の度合いを知らせる。
「その割には音がすごい」
 耳元で、恥ずかしい音を指摘され、ナナは喘ぎ声を唇を噛んで堪えた。
「ナナ、声 我慢しても漏れてる」
 たっぷりと艶を含んだ声で安住はナナと呼びかけ耳元で囁く。ナナの椅子に腰掛けたままの足がピンと突っ張り、ふるふる震えた。
「が、我慢してないです」
「気持ちいいのか?」
 問い掛けられ、ナナは先導されるがままにこくこくと首を縦に振った。閉じた瞳の奥で、フラッシュがたかれる。ビクンと体が跳ねる都度、その音までも回線を通じて届いてしまう。
「どう?気持ちいい?」
 一度たりとも、こんな甘く優しい声でナナは安住に問い掛けられた事は無かった。これは本当に安住だろうか?ナナの心の中は混乱を招いていた。
「はっ・・・」
 床を見つめて口を開く。優しい自分が知らない安住、よく知る人の知らない部分がナナの脳を蕩けさせる。
 唾液がトロリと垂れて口を塞ぎ、ナナの言葉を邪魔する。
「ナナ?」
 耳元でたっぷりと間を取って名前を呼ばれる。
「は、は・・・・ふぁい」
 勝手に指が一番気持ちいい部位を押し潰し、かき混ぜ、さらに捏ね回し、トロリと涎が膝まで糸を引いて垂れる。
「すまん」
「ぇ・・・」
「そんな声出されたら、俺の方がすぐいきそうなんだが」
 苦しげに。安住はグループを二人で組み、マイクをオフにし忘れたナナの第一声を聞いたときから勃起していた。ナナの声を遠くで聞きながら、安住の指の動きは感じる部分を素直に探り加速度を増してしごく。限界が見えてきた時、ナナの甲高い声が安住の耳を揺さぶった。
「ぃ・・・まだ、ぃっちゃだめ!!」
 ナナは切れ切れに下に垂れていく涎を目で追いながら、思ったままを口走る。
「む、ムリ」
 だめだといわれて止まれる男はそうそう居ない。ナナのパソコン越し、ティッシュを抜き取る音がはっきりと聞こえ、続けて安住の長く長く息が吐き出される。吐き出す息に刺激され、ナナは唇と快感を奥歯で噛み砕いた。ナナが目にした事の無い、性器から噴出した精液を拭う安住の姿が脳裏に無意識に描き出された。その妄想は、ナナにダイレクトに快感を与えた。ナナの指の動きが激しくなる。
「ぁぁ」
 ビクンと、最後に一度大きく体が跳ね、小さくナナの声が漏れた。糸を引く快感が体からサラサラと零れ落ちる。液晶モニタの脇に置かれたティッシュで唇と濡れた手を拭う。安住は再び股間がそそり立つのを感じて、唇を噛んだ。
「安住さんのオカズ、最高でしたッ!」  ナナは吹っ切るように元気良く喋り、そのままの勢いで回線を切断した。液晶モニタのゲーム画面の真ん中にサーバーに繋がらない旨のエラーメッセージが現れ、長い髪を振ってナナはヘッドセットを外し椅子から立ち上がった。


-終-

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